「ストイックですね」って褒め言葉?

煩悩と共存するsustainableな禁欲者 オナ禁やいわゆる”トンデモ健康法”を自己責任の範囲内で実践しています。

オナ禁者の動機(モテたい)は不純?禁欲主義の意味と自己超越

はてなブログ様が #オナ禁 というキーワードを解説しているページを発見しまして、だいぶ痛いところを突いていたのでご報告致します

オナ禁
【おなきん】
「自慰の禁止、禁欲」を指す言葉。

2004年頃からネット上で見られるようになる。

オナ禁は「自慰を減らす、又は止める」ことを目標としており、禁欲の代価として様々な効果、効能を得ることが出来るとされている。

(中略)

禁欲主義
尚、根本としては、アスケーシス(禁欲主義)に似た考えに基いているが、「異性に好感を持ちたい」といった動機から禁欲をしているケースが多い為、こういった動機を感性的な欲望とするのならば、正しい意味での禁欲主義ではない。

正しい意味での禁欲主義ではない。

正しい意味での禁欲主義ではない。

「モテるためにオナ禁してるんだから"正しい意味"とかどうでもいい」

そう思われるのならば、それでも結構なことだと思います

しかし私個人としてはこれを真剣に受け止め、一オナ禁者としての今後の身の振り方について今一度考え直すことにしたのです

我々が目指すところは一体どこなのでしょうか

禁欲主義とは

禁欲の「欲」とは何を指すのでしょう

禁欲主義では「感性的欲望」が悪の源泉であり、距離を置くべきものとされますが、「悪」の定義や「道徳」については時代背景によって異なるはずです

(言わずもがな現代の道徳がオナニーを非道徳的と断ずることはないでしょう)

道徳観が各時代によって流動的であるならば、"正しい禁欲的な生き方"は普遍的であり得ないということでしょうか

それとも普遍的な道徳というものが存在するのでしょうか

ユダヤ教・キリスト教における禁欲主義はザックリ言うと「審判」で裁かれる日に備え、道徳的に正しい精神であろうとする取り組みです

これは裁く側の存在に抑圧され、「地獄に落ちたくない」という強迫的で従属的な印象を私は受けました。何より信仰がベースとなるために現代人の行動の規範となることは難しそうです

一方でギリシャ哲学における禁欲主義は、理想的な人格を形成するための「徳の訓練」と捉えられたそうです

普遍的、本質的な分別(ポリス,理性)を持ち、流動的な世間・外的世界に感情を乱されることのない、魂の平穏を目指すことが目的です

これは言い換えるならば、内なる不動心を発揮するための取り組みです

私の愛好する禅の教えにも近い印象を受けました

強迫観念で抑圧された我慢大会になるのではなく、欲に流されない価値観を禁欲の実践を通じて体得していくのです

普遍的な道徳とは

感性的欲求を定義する「道徳」の検討に戻ります

カントは「道徳的善さ」とは傾向性(欲求)から自由になること、としました

自然に欲求を克服できるのは神のような最高存在だけであるという前提の上で、「理性的な自分の直感する(理屈ではない)義務を自分に課し実践する」ことだけが道徳的であるといえるのです

道徳が普遍的であるための条件として、以下を参考にしてください

・理性が課してくる道徳法則に従い、義務として行為すること、ただこれだけが道徳的である。自分自身にできるだけ普遍的な仕方で課したルールに、他の誰からも命令されず、ただ自分の意志でのみ従うこと。これが道徳的であるために必要だ。そうカントは考えました。

・他人に何かをして自分が幸せになろうとすることも結局は欲求に流されているにすぎず、道徳的とは言えない

・カントは世界のどこかに「真の道徳法則」があり、それに従うことが道徳的であるとは考えませんでした。仮にそうしたものがあるとしても、それに依存すれば結局流されているにすぎないことになるからです。同じ理由で、習俗や文化の既存のルールや慣習に従っている行為を道徳的とは見なしませんでした。

[Q&A]「定言命法」のポイントは何ですか? | Philosophy Guides

つまり普遍的な道徳は外部から指針として与えられるものでなく、「人のためにしてあげたい(それが自分の利益/喜び=欲求)」も適さない。それでいて個々人の直感的判断に委ねられているものなのです

「道徳的に善い行為をめざすとき、最も障害となるものは、「自己愛」である」。また、 一般に「善い」とされている行為には、さまざまな自己愛が貼りついていると言われる。 たとえば、「信用を維持しようとして約束を守る」(この場合「信用を失うといけないから」 という自己愛が「約束を守る」という行為の動機として機能している)、「他人によく思わ れたいから、親切にする」(同様に「他人によく思われたい」という自己愛が「親切にする」 という行為の動機となっている)などである。しかし、自己愛という動機がわずかにでも 含まれているものは道徳的行為でありえない。
http://law-kanazawa.info/wp-content/uploads/2017/10/2012matsunaga.pdf 第1章第3節

善意志に自己愛が絡むのを完全に逃れることは難しい・・・

「モテたい」はマズロー的には欠乏欲求

モテたい、ヤリたい、金欲しい、出世したい

これらがなぜ心の平穏に繋がらないのか

仏教的な考え方では「欲を満たすと同時に、これらを失いたくないという執着が生まれる」のが理由です

人生の苦しみは執着(思い通りにならないこと)から生まれるわけですから、満たされようが満たされまいが、欲と関わっているうちは苦しみから解放されません

またマズローの欲求5段階説に依れば、これらの感性的欲求は下位レベルの欠乏欲求に分類され、この段階に囚われているうちは劣等感や無力感から逃れられません

自己実現理論 - Wikipedia

オナ禁者の多くがモテや社会的成功を目標にしますが、これらは自己実現の欲求(存在欲求)ではないために、真のブレイクスルーに至らないという考えができます

人によっては「社会的欲求」「承認の欲求」などを飛び越えて自己実現を目指すケースがあるものの、ここでは1段ずつ登っていくものと考えてみましょう

下位の欲求を克服し、自己実現を目指す段階に辿り着くマインドのひとつが、「足るを知る者は富む」です

次の段階にコマを進めるためには、大きな欲求を貪り満たすのではなく、足るを知って小さく満たす方向で生きることです 

例をあげましょう

いわゆる三大欲求は本能的な欲求だと一般的に言われますが、現代人の三大欲求が必ずしも生存に不可欠かというと疑問が残ります

我々先進国の食は多様化し、コストパフォーマンスを叶えるための大量生産大量消費が当たり前の現状です

ある国では食糧難に苦しみながら、ある国では食品を大量に廃棄している

この矛盾にぶつかったときに、食の「足る」はどこにあるのかを考え始めます

お腹が空いてもいないのに、習慣だからと胃にモノを詰め込むのをやめてみようかな?

一日の食事量を減らしてみようかな?

案外小食でも自らの肉体は変わらず機能するということに気づくかもしれません

これで「食事の欲求」はclearです

あらゆる欲求についても同じことが言えます

自分なりの「知足」を探ることが自己実現への近道となります

周囲の人やメディアに植え付けられた価値観を疑うことからはじめましょう

クリぼっちが不幸せだって貴方の魂は本当に感じているのでしょうか?

自己超越の境地

私も最近になって知りましたが、マズローの欲求5段階説にはもう1段階上があったのです

マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、自己超越 (Self-transcendence) の段階である。 自己超越者 (Transcenders) の特徴は

「在ること」 (Being) の世界について、よく知っている
「在ること」 (Being) のレベルにおいて生きている
統合された意識を持つ
落ち着いていて、瞑想的な認知をする
深い洞察を得た経験が、今までにある
他者の不幸に罪悪感を抱く
創造的である
謙虚である
聡明である
多視点的な思考ができる
外見は普通である (Very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。

「統合」という言葉が出てきて「あぁ!」って感じです

自己超越者の特徴はそのままスピリチュアルでいうところの魂のレベルが高い人です

欲の克服
=道徳的善さ
=悟り(無我・非我)
=自己超越の境地
=分離のない世界観

カントが他者のためにする善行を道徳的としなかったことは、「自他の分離」を指摘していると解釈することができるでしょう

まとめ

禁欲(オナ禁をはじめとしたあらゆる感性的欲求に対する慎み)は結果として魂のレベルを上げることになるかもしれません

足るを知ることや、物質的な価値観ではなく精神的(スピリチュアル的)な価値観を見いだすことのきっかけになると思うからです

しかしそれを目的としてしまっては、普遍的道徳に基づいた真の禁欲主義を生きることにはなりません

私たちにできることはせいぜい自分の心の声を聴き、自分を大切にしてあげることだけなのでしょう