「ストイックですね」って褒め言葉?

煩悩と共存するsustainableな禁欲者 オナ禁やいわゆる”トンデモ健康法”を自己責任の範囲内で実践しています。

宮崎奕保禅師様のお話の一部書き起こし

NHKスペシャル 永平寺 104歳の禅師

福井県にある曹洞宗大本山永平寺の78代住職、宮崎奕保(えきほ)禅師は数え年で104歳(2004年現在)になる。永平寺8世紀の歴史の中で最高齢の住職である。「悟りとは頭で理解するものではなく、日々の生活や行動そのもの」という開祖・道元禅師の教えのままに、100歳を超えても毎日修行を続けている。宮崎禅師の姿を見つめることで、禅とは何か、そして人が生きる道とは何なのかを探る。

禅師様のお話を拝聴したことで禅への理解が深まりました。この感動を少しでも分かち合いたいと思い、一部を書き起こしをさせていただきます

新年のご挨拶

お釈迦様の教えというものは、天があり地があってその恵みを受けて、人間がその正しい真を実行していくという、大法則のもとに生かされておるということでございます。真は名前を変えたならば真理ということになる

この忙しいときに手を組み足を組んで、ただ虚しく坐っておるように思うけど、そうではなくて、大自然を真に表したものが3分、5分の坐禅。どうぞ皆さん、朝の3分でも5分でもよろしいから、まず第一に正しい真の姿をもって、先祖さんに挨拶をして、元旦のはじめにお願いをしておきます

誠におめでとうございます。どうぞよろしゅう

坐禅とは何か

聞き役:坐られるときに頭の中で何かを考えておられるのですか?

何も考えない。妄想せんことや。いわゆる前後裁断や。その時その時、一息一息しかないんだ。だから何か考えたらもうそれは余分や

人間は名誉とか地位とか見栄とか我慢とかそんなもんでいっぱいだ。やっぱり欲は克服するすべを覚えんといかん。それが坐禅だ

聞き役:坐禅を続けることによって克服できるのですか

息と一つになる。欲の起こる隙がない。坐禅ということはまっすぐということや。まっすぐというのは、背骨をまっすぐ、首筋をまっすぐ。右にも傾かない、左にも傾かない。まっすぐということは、正直ということや

身心は一如(ひとつ)やから。体をまっすぐにしたら、心もまっすぐになっとる

人間はわがままが自由やと思っとる。ちゃんと型にはまったものが平生底(日常)でなければならない

道元禅師様の坐禅ということは、すべてがみな禅だ。禅と言ったら何か殊更にあるように思っとる。そうではなくて、そのものと一つになっていくことが禅だから、歩いたら歩いた禅。喋ったら喋ったで、喋ることが禅だ

スリッパを脱ぐのも坐禅の姿や。スリッパをそろえるのが当たり前のこっちゃ。たとえばスリッパがいがんでおったら放っておけないんだ。スリッパがいがんでおるということは自分がいがんでおるんだ。自分がいがんでおるから、いがんだやつが直せないんだよ

だから物を置いても、ちぐはぐに置くのとまっすぐに置くのと、すべて心が表われておるんだから、心がまっすぐであったらすべての物をまっすぐにする必要がある

目標の人物を一生真似すれば本物になる

11歳の時に寺に引き取られ、小塩誾童老子のもとで修業をはじめた宮崎さん

ナレーション:遊びたい盛りの宮崎さんにとって、寺の生活はあまりに厳しく、坐禅ばかりしている老師のことが理解できずにいました

11歳から坐禅しとる。それも嫌々ながらやっとった、はじめは。そんなことするよりほかにすることがあると思っとった。坐禅するよりほかにすることがいくらでもあると思っとったんや

ナレーション:転機が訪れたのは29歳の時でした。小塩誾童老子が82歳で亡くなったのです。宮崎さんは小塩誾童老子の亡骸を前に、一晩中坐禅をし、老師との修業の日々を思い返しました

老僧の温かい死骸を見たときに「偉い人やったな」と思った。80にもなっとって、雲水と同じものを食べて、雲水と同じように1日を"わたくし"のない生活をする

やっぱり日常の生活が手本やな、老僧の。口だけでない、実行で示した。それがもとや。できたら老僧のような坊さんになりたい。だから人間は真似をせなあかん。学ぶということは真似をするということから来とる出とる

1日真似をしたら1日の真似や、それで済んでしまったら。2日真似してそれであと真似せなんだらそれは2日の真似。ところが一生真似しておったら、真似がほんまもんや

曹洞宗の僧侶へ向けてのお話

この頃の情勢を各報道機関によって見聞しますと、大衆に範を示さなければならない地位にある者が範を犯したり、非常に醜い醜聞がちまたに満ちておりますが、教えというものは何がためにあるかと言えば、教えは実行するためにある

そのために高祖様は黙って真理を実行するところの只管打坐をお勧めになった

どうぞ口で布教するだけでなくて、我が宗門は黙って実行するということに中心を置いてください。お願いをしておきます。どうぞよろしゅう

規則正しい大自然を手本に

聞き手:大自然のことをどのようにお考えでしょうか

自然は立派やね。私は日記をつけておるけど、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた、ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる

だから自然の法則を真似て人間が暮らす。人間の欲望に従っては迷いの世界だ。真理を黙って実行するというのが大自然だ

誰に褒められるということも思わんし、これだけのことをしたらこれだけの報酬がもらえるということもない。時が来たならばちゃんと花が咲き、そして黙って褒められても褒められんでも、すべきことをして黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ

ナレーション:104歳になった今年、宮崎さんは自分の人生を一本の梅の木になぞらえ漢詩を読みました

一百四年長壽梅
瑞花五葉恁麼開
単傳佛法無他事
依𦾔正身端坐来

(104歳になる老梅も花を咲かせることができた
 これもひとえにただひたすら坐禅をしてきたからである)

まとめ:禅は実行そのもの

まとめます。気になったキーワードは真(まこと)、真理、大自然、真似、実行でした

坐禅は何か特別な能力を身に着けるものではなく、人間を惑わせる欲を克服するための実践です。肉体と精神は同調するものだから、頭で難しいことを考える前に、まずは正しい姿勢を作って無心で坐ってみます。そうすれば心も正しい本来の姿に落ち着くのです

心の中の欲を克服した状態を「自由」と呼び、それを望むのならば、我々のあるべき姿は規則正しく律された日常生活の型を、気を散らさずに守り続けることにあるのでしょう

また禅は本来大自然が当たり前にやっている振る舞いを真似るものであるため、肩肘張って取り組むものでなく、日常の生活へ溶け込ませていくものであると感じました

「スリッパがいがんでおるということは自分がいがんでおるんだ。自分がいがんでおるから、いがんだやつが直せないんだよ」というお話は背筋が伸びました

「部屋の整頓と精神状態はリンクしている」とはしばしば自己啓発の文脈で言われていることですね

私も坐禅を朝晩10分ずつおこなっておりますが、普段の生活の中にだらしなく乱れている面はたくさんあります

無論、坐っている時間だけが生活ではありません。坐禅は一つのことに集中する感覚に気づくためのきっかけの一つに過ぎないのでしょう